国語事件殺人辞典

こまつ座第157回公演「国語事件殺人辞典」を、紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYAで観てきました。井上ひさしさんが1982年に書いた「正しい日本語とは何か」を問う戯曲を、筧利夫さんの圧倒的なセリフ回しで体験した3時間。言葉の「正しさ」を突き詰めた先に何が残るのか…笑いと哲学が同居する、密度の高い舞台でした。

作品概要

「国語事件殺人辞典」は、井上ひさしさんが1982年に書き下ろした戯曲です。盟友・小沢昭一さんのひとり劇団「しゃぼん玉座」の旗揚げ公演として初演されました。こまつ座では今回が初めての上演となり、演出は大河内直子さんが務めています。

物語の主人公は、国語学者・花見万太郎。6万枚のカードに6万語を記し、外来語を極力廃した「正しく美しい日本語」だけを載せた国語辞典を編もうとする人物です。弟子の山田青年とともにトランクを手に旅に出ますが、行く先々で持論は論破され、追い詰められていく…「井上ひさし版ドン・キホーテ」とも呼ばれる言葉論です。

主演の花見万太郎役は筧利夫さん、山田青年役は諏訪珠理さん。上演時間は約3時間(途中15分の休憩あり)です。

筧利夫さんの圧倒的なセリフの精度

井上ひさし作品は台詞量の膨大さで知られていますが、筧利夫さんはその膨大な言葉を淀みなく、しかもテンポよくこなしていました。ただ「正確に読む」のではなく、花見万太郎という人物が本当にそこで考え、感じ、語っているように聞こえてくる。終演後、最初に浮かんだのはその凄みでした。

花見万太郎は「正しく美しい日本語を守る」という信念を持った人物です。ともすれば保守的で頑固な印象を与えかねない人物ですが、筧利夫さんの手にかかると、その頑固さがコミカルで、どこか憎めない。嫌味にならず、押しつけがましくもならない。この人物が3時間の舞台を牽引できたのは、筧利夫さんのセリフの精度があってこそだと思います。

諏訪珠理さん演じる山田青年との掛け合いも心地よいものでした。花見万太郎が「正しい日本語」を説くのに対して、山田青年がスッと会話を返す。筧利夫さんのテンポに崩されずに応じ続けるのは簡単なことではないはずですが、二人の呼吸が合っているからこそ、掛け合いそのものが楽しい。

「正しさ」を突き詰めると、比喩が死ぬ

今回の作品で最も印象に残ったのは、喫茶店での編集者と小説家のやり取りの場面です。

編集者が大御所小説家の原稿を大絶賛しながらも、「ある箇所の比喩が重いから、もっとシンプルにした方がいいのではないか」と提案します。それを横で盗み聞きしている花見万太郎も「うんうん」と頷いている。しかし小説家は反論します。「正しい日本語」を突き詰めていったら、比喩表現は成り立たなくなるのではないか、と。

例として挙げられたのが「日はまた昇る」「日はまた沈む」という表現です。地動説の立場に立てば、太陽は動いておらず、こちらが勝手に動いているだけ。「日が昇る」という言い方は、厳密には天動説に基づいた「間違い」です。しかし、その「間違い」を排除してしまったら、言葉はどうなるのか。

これは科学的な正誤の問題ですが、小説家はさらに踏み込みます。比喩や修辞をすべて「不正確だから」「分かる人とわからない人がいる」と取り除いていったら、残るのは事実をそのまま述べるだけの言葉ではないか。「ご飯を食べたら美味しい」という、それ以上でもそれ以下でもない言い方しかできなくなるのではないか…。科学的な間違いの排除と、表現の豊かさの喪失。この二つは別の問題のようでいて、「正しさを突き詰めると言葉が痩せる」という一本の線でつながっている。そこを小説家は突いたのだと思います。

この場面を観ながら感じたのは、言葉の「揺れ」や「誤用」の中にこそ、表現の豊かさがあるということです。
同じものを食べても、出てくる言葉は人によって違います。他人から見れば「間違い」かもしれない。それでも、なぜその言葉が自分の中から出てきたのかという過程にこそ価値がある。花見万太郎が守ろうとしている「正しさ」は、実は言葉の面白さを殺してしまうかもしれない…この逆説が、作品の面白さにあらわれていると思いました。

劇場空間の親密さと、タイトル表示による構成の誘導

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYAは468席。大きすぎず小さすぎず、台詞劇にはちょうどいいスケール感でした。

この空間を活かした演出がいくつかありました。まず、役者が客席に降りてくる。舞台上で長い掛け合いが続いた後に、自分のすぐ近くまで来る。生の声と息遣いが間近に感じられる瞬間は、この規模の劇場だから成立しています。

さらに、この「客席に降りる」演出がセット転換と連動している点が面白い。客席側の演者に観客の注意が向いている間に、舞台上ではセットをガラッと入れ替えている。注意を意図的に分散させることで、場面転換を目立たせない設計です。

寸劇ごとにタイトルが表示される演出も、3時間の長尺を支えていました。「全然〜ない」の話、喫茶店での編集者と小説家の掛け合い…「次は何の話だろう」と、テレビ番組のコーナーを待つような感覚で観ていられる。約3時間の上演中、集中力が途切れなかったのは、この構成によるところが大きいです。

今回の観劇で改めて感じたのは、演劇と読書では「注意」の構造がまったく違うということです。

本を読む場合、与えられている情報は基本的に全員同じです。しかし演劇の舞台では、同時に複数のことが起きている。たとえばこの公演では、メインの掛け合いが進行している最中に、別の場所で次の寸劇のセットが組まれている。客席に降りてきた役者がすぐ目の前で演技している。どこに目を向けるかは、観客に委ねられています。

実際、前述のセット転換に気づいたのは、たまたま自分が舞台全体を見渡していたからです。おそらく、メインの演者だけに注意を向けていた観客は気づいていない。同じ公演を観ていても、一人ひとり違う「作品」が立ち上がっている。この「注意の分岐」は、照明で視線を誘導できる映画にはない、演劇固有の体験だと思います。

44年前の戯曲に残る古さ

1982年に書かれた戯曲であることは、レトロなセットからも伝わってきます。ただ、セットのレトロさとは別に、アップデートされていないと感じる部分がありました。

女性キャラクターの扱い方です。花見万太郎の元妻と思われる人物や、その周辺にいる若い女性の描かれ方に、1982年当時のジェンダー観がそのまま残っているところが見受けられました。

「言葉の正しさ」を問う作品でありながら、女性の描き方に関しては当時の価値観が更新されていない。戯曲を忠実に上演するというこまつ座の姿勢は理解できますが、観客として時代観に違和感を覚えたのも事実です。

前半の軽快さ…「日本語の乱れあるある」の寸劇

構成面では、前半と後半でテイストが大きく変わる点について触れておきたいと思います。

前半は「日本語の乱れあるある」を題材にした寸劇が軽快に続き、非常にわかりやすい。観客を笑わせながら、日本語の使い方への問題提起を重ねていきます。「全然〜ない」の用法や、先述の比喩表現の話など、身近なテーマが次々に展開されるので、言葉に興味がある人なら前のめりで観られる構成です。

後半の哲学的転換…「いいえ」を質入れするということ

後半になると、物語はより哲学的な方向へ転換します。

追い詰められた花見万太郎が、「いいえ」という言葉を質屋に10万円で売ってしまう。自分が「いいえ」と言う権利を失った状態に置かれる…この設定は、「言葉の正しさ」の議論から「言葉を発する権利そのもの」へとテーマを深化させる展開です。お金よりも、自分の意思として言葉を使い、発言できることがいかに大切か。それが誰かに剥奪されている状態はあってはならない…後半はそうした主題へと向かっていきます。

前半の「あるある」がずっと続いていたら単調になっていたでしょうから、この転換自体は成功していると思います。ただ、後半の主題にたどり着くまでにやや迂回する場面があり、観客としてはもう少し整理されていると追いやすかったのではないか、という印象も残りました。

さいごに

「国語事件殺人辞典」は、日本語というものに忠実に向き合った演劇でした。

個人的に心に残ったのは、花見万太郎の姿勢です。「正しく美しい日本語を守る」という信念を持ち、何があっても諦めない。行く先々で論破され、追い詰められても、トランクを手放さない。自分自身も美学の研究を続けていますが、花見万太郎やドン・キホーテほどの挫折を味わう段階にすら至っていない。信じるものを突き詰めていく姿勢を、この人物に見せられた気がします。