プロジェクト・ヘイル・メアリーは去年の年末くらいに原作を読みました。それから約5ヶ月。2026年3月20日の日米同時公開を迎え、先日グランドシネマサンシャイン池袋のIMAXシアターで鑑賞してきました。結論から言えば、とても面白かったです。プロジェクト・ヘイル・メアリーについて、原作と映画の両方から、自分なりに感じた面白さを文章にさせていただきます。
※本記事は内容に具体的に触れています。原作・映画ともにネタバレを含みますので、ご了承ください。
目次
作品概要
『プロジェクト・ヘイル・メアリー』(原題: Project Hail Mary)は、アンディ・ウィアーの同名小説を原作としたSF映画です。監督はフィル・ロード&クリストファー・ミラー(『LEGOムービー』監督、『スパイダーマン:スパイダーバース』シリーズ製作・脚本)、脚本はドリュー・ゴダード(『オデッセイ』)。主演のライアン・ゴズリングはプロデューサーも兼任しています。
太陽のエネルギーが謎の微生物「アストロファージ」によって奪われ、地球は数十年以内に氷河期を迎える危機に瀕する。元中学校教師のライランド・グレースは、記憶を失った状態で宇宙船「ヘイル・メアリー号」の中で目覚めます。科学の知識だけを頼りに状況を把握していく中、異星人「ロッキー」と出会い、言語も文化も生存環境も異なる二者が、科学を共通言語として互いの故郷を救うために協力する— という物語です。
上映時間は156分。撮影監督は『DUNE/デューン 砂の惑星』シリーズのグレイグ・フレイザー、音楽はダニエル・ペンバートン。共演にサンドラ・ヒュラー(ストラット役)、ロッキーのパペット操演はジェームス・オルティスが担当しています。製作費は約2億ドル。
世の中の評価:10年に1本のSF大作
先に、この映画が公開直後にどう受け止められているかを整理しておきます。
Rotten Tomatoesでは95%、Filmarksでは4.2という高い評価を受けています。「10年に1本クラスのSF大作」「『メッセージ』『インターステラー』『DUNE』と並ぶ現代SF映画の代表作」— こうした評価には、個人的にも同意します。というか、『インターステラー』や『DUNE』と並ぶどころか、むしろ『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の方が面白かったと感じるくらいです。
一方で否定的な意見にも一理あります。「156分は長すぎる」「緊張感・葛藤が不足している」「宇宙版テッド・ラッソ」という批判。そして最も本質的な指摘として、「読書体験における科学の追体験が映像では再現しきれない」という声。THE RIVERのレビューでは「原作に忠実で、優しくて、美しく、映像化としてほとんど理想的。しかし、避けがたく失われてしまう何かがある」と表現されていました。失われた「何か」とは何なのか— それは本記事の後半で詳しく述べます。
原作と映画:感動の質の差異
最初にお伝えしたいのは、原作も映画もどちらも面白かったということです。ただし、感動した部分はまったく異なりました。
原作の魅力は、科学的な考証とロジックの緻密さにありました。アストロファージの性質を解明していくプロセス、限られたリソースでのサバイバル、そして何よりグレースとロッキーが言語も文化も持たない状態から「科学」という共通の興味をベースに、コミュニケーションを一歩ずつ構築していく過程。SF的なロジックの上に、二者の関係性が少しずつ段階的に発展していく様子は、原作ならではの醍醐味でした。
映画の感動は、それとはまったく別のところにあります。宇宙空間への没入です。IMAXの巨大なスクリーンに広がる宇宙の暗さと光、ロッキーの宇宙船との邂逅、キセノナイトで作られたトンネルの武骨な質感。物語が終わった後もずっと観客を宇宙に留めておくエンドロールの潔さ。映像でしかできない感動が、この映画にはありました。
ポップなトーンの垣間見えるSF
調べてみるとフィル・ロード&クリストファー・ミラーの作風は、ジャンルの転覆とポップさにあります。『LEGOムービー』の監督、『スパイダーバース』シリーズの製作・脚本で知られる彼らは、アニメーションと実写の両方で高い評価を得ているフィルムメーカーのようでした。本作にもそれは明確に表れていました。
印象的なのは、孤独な宇宙空間でビートルズを流し始めるところです。『インターステラー』のハンス・ジマーによるパイプオルガンが宇宙の崇高さと孤独を表現していたのに対し、本作は既存のポップソングで孤独を「和らげる」方向に振っている。クリストファー・ノーランが監督していたら、ああいう場面で音楽は流れなかったと思います。
グレースが船内からひょっこり顔を出すようなポップなカットも多く、序盤から宇宙の深刻な孤独感はあまり感じませんでした。
『インターステラー』や『ゼロ・グラビティ』のような、宇宙に押しつぶされるような孤独とはまったく違うアプローチです。今考えると、ひょっこり顔を出す構図を『インターステラー』に持ち込んだらトーンが崩れます。
ロッキーとの遭遇シーンも、原作と比べて意外なほどユーモアのあるカットでした。原作では未知の宇宙船の正体がわからないまま、じわじわと近づいていく緊張感がありましたが、映画ではジェット噴射を3回繰り返し、呼応するようにロッキーも3回返す— どこかコミカルで前向きな出会いとして描かれています。音楽もそれほど暗いものではなく、得体の知れないものに出会う不気味さを、あえて排除していたのではないでしょうか。ここは鑑賞していてかなり印象的な感情移入の差でした。
もう一つ、このシーンには原作との決定的な違いがあります。
映画のグレースはブリップAから逃げようとする。恐怖が先に立ちます。しかし原作のグレースは違いました。「人類を救わなければいけないが、好奇心には勝てない」— 未知の存在に対して恐怖ではなく科学者としての好奇心で近づいていく。この違いは、原作の読者が数百ページにわたる「グレース先生の頭の中の描写」を吸収してきたかどうかに起因しています。
あの描写を通じてグレースの科学者としてのキャラクターが読者の中に内面化されているからこそ、好奇心が恐怖に勝つ行動に説得力がある。映画の観客にはその蓄積がないため、恐怖で逃げる方が自然な反応として成立する。結果的にジェット噴射などのコミカルなミラーリングに見えるよう処理したのは、原作ではなく映画であることを考えると納得できました。
全体的に時折発生するポップさは肯定的に捉えています。
すべてをシリアスに描いた場合、雰囲気的にも科学的考証の説明も必要になり、156分では到底収まりません。原作を読んでいない一般の観客が映画館に来ることを考えたとき、全体のトーンを暗くしすぎてしまうと、どこに感情の起伏を持って最後まで観ればいいのかわからなくなる。だから、宇宙空間におけるポップな要素を取り入れたと思います。
“乗りたくない”主人公:エヴァンゲリオンとの対比
世の中の評価で「オールドスクールなブロックバスター」という表現がありましたが、ブロックバスター(巨額の製作費をかけた大作映画)であることは間違いないとして、オールドスクールだとはまったく感じませんでした。理由は3つあります。
1つ目は、地球外生命体と対等な友情を築くSF大作という点。『E.T.』のような前例はありますが、本作ほど科学を媒介にして対等な関係を構築していく作品は珍しい。
2つ目は、目覚めたら仲間が全員死んでいるという始まり方。
3つ目は、何よりもグレースが「乗りたくない」と言っていること。地球を救うために宇宙に行くのを拒否する— この物語構図は、従来のSF大作の王道ではありません。
この「乗りたくない」という構造で連想したのは、『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジです。ただし、両者には決定的な違いがあります。シンジには「乗らない自由」がありました。「逃げちゃダメだ」と自分に言い聞かせ、傷ついた綾波レイの姿を見て「やります、僕が乗ります」と口にする。葛藤の末ではあっても、最後の一歩は自分の言葉で踏み出している。
一方、グレースには選択権がありません。ミッションが片道切符だと知って拒否し逃亡を試みるも、捕獲され、薬を打たれて昏睡状態のまま強制的に乗せられる。とても無慈悲です。個人の意志が、地球の存亡という大義の前に問答無用で踏みにじられる。
このアメリカ映画における「乗りたくない」と日本アニメにおける「乗りたくない」の違いは、どこか興味深いものがあります。
とは言え、この最重要局面で選択権を奪われた人間が、物語の最後に自らの意志でエリドに「残ることを選ぶ」— この弧を描くような着地が、グレースという人物の物語を完成させていました。
一人称の語りを映像に翻訳する:フラッシュバックと「Don’t Go Crazy」ルーム
原作のグレースは一人称の内面独白でユーモアと知性を見せるキャラクターであり、記憶喪失を軸に現在の宇宙パートと過去の地球パートが交互に語られます。
映画はこの「一人称の語り」をどう映像に翻訳したのか— ここには成功と課題の両方がありました。
フラッシュバック構造について言えば、原作では何がトリガーになって記憶が戻るのかが明示されていて、読者も「ああ、だからここで思い出すのか」と納得しながら読み進められます。映画では、そのトリガーが不明確で、やや強制的に過去パートに切り替わる印象がありました。活字なら「この匂いで記憶が蘇った」「この言葉を聞いて思い出した」と内面を書けますが、映画ではカットの繋ぎだけで処理しなければならない。フラッシュバックの必然性が映像では伝わりにくかった部分はあります。ただ、過去と現在を交互にやりながら物語が深まっていくという構成自体は、映画でもある程度成功していたと思います。構成の理解度という点では活字が優れていますが、映像には映像のテンポがあり、それはそれで機能していたと思います。
一方で、内面独白の代替手段は巧みでした。「Don’t Go Crazy」ルームと呼ばれる360度環境投影の船内設備— 原作にはない映画オリジナルの装置で、地球の風景や映像をプロジェクションマッピングのように投影できる。乗組員の精神衛生のために設けられた部屋ですが、これがロッキーとのコミュニケーションにも転用されます。原作のまますべてを(特にグレースとロッキーのコミュニケーションプロセスを)言葉で説明しようとすると、どれだけ尺があっても足りません。視覚装置の活用によってコミュニケーションの媒介とし、内面の独白を映像的に置き換えた。船のAI「メアリー」がグレースにビデオログの記録を促す仕組みも含め、一人称の語りを映像言語に翻訳するための工夫が見られました。
センス・オブ・ワンダーの喪失
この映画に対する最大の論点は、ここだと思います。
原作には、科学的考証の域を超えて、それが文学的に表現されている瞬間がありました。SF批評の伝統的な用語で言えば「センス・オブ・ワンダー」— 未知の事象や科学的発見によって世界の見え方が一変する瞬間の驚きと感動です。原作の醍醐味はまさにこのセンス・オブ・ワンダーの連続にあり、それが映画では失われていると感じた部分がいくつかあります。
一つ目は、「確率と必然」の対話です。原作では、グレースがロッキーに「俺たちがこんな遠くの星で出会うなんて、天文学的な確率だよな」的なことを言います。それに対してロッキーは「いや違う、それは必然だ」と答える。「これだけ熱意を持ったお互いがここに来るということは、この時代、このタイミング、この状況においては必然だったのだ」と。
天文学的な確率の低さを、逆説的に必然として捉え直す。確率論がロマンに変わる瞬間です。原作を読んでいても、読後最も記憶に残っている場面でした。映画でこの対話を再び体験することを楽しみにしていたのですが、映像化されていなかったように感じ、正直個人的には勿体ない気持ちになりました。
二つ目は、指の本数と進数の話です。原作では、数の数え方を確認するシーンで、人間のグレースは10進数を使い、ロッキーは6進数を使うことがわかります。その理由が身体構造に由来している— 人間は10本の指があるから10進数、ロッキーは作業用の2本の手に各3本、合計6本の指があるから6進数である、ということです。
この描写がSF文脈の中にあると、生物的で数学的な考察を超えた文学的な感動がありました。地球外生命体との交流において、お互いの身体構造から文化を理解し合うというエピソードは、単なる事実の記述以上の深みがあります。映画ではこれが食べ物の摂取方法の違い(口の位置が違う)のような、視覚的に分かりやすい部分で文化差を表現していました。原作にもこのシーンはありますし映画的な判断としては理解できますが、原作が持っていた知的感動の質とは異なるものです。
どちらの例にも共通するのは、事実から論理を経て感動に至る跳躍— まさにセンス・オブ・ワンダーの発動です。
原作の魅力はこの跳躍にあったのに、映画では事実の部分ごとカットされたため、跳躍が起きる余地が…なかなか…ない。
別の観点では、原作には科学そのものへの畏敬の念を呼び起こす描写がありました。特に印象的だったのは、ロッキーたちの世界に相対性理論が存在しないとグレースが知るくだりです。自分たちが当たり前だと思っている知識が、別の知的生命体にとっては当たり前ではない— その発見が持つ衝撃は、原作を読んでこそ実感できるものでした。
映画ではこうした科学の厚みが抜け落ちているため、グレースとロッキーの出会いが「科学者同士の邂逅」ではなく「人間と変な宇宙人の出会い」に見えてしまうリスクがあります。
しかし他方、映画は大衆娯楽であり、2億ドルの製作費を回収しなければならない。
科学的考証を丁寧に積み上げていけば「科学はすごい」というメッセージに到達できますが、見る人を絞る危険もある。原作を読んでいない観客に向けて、暗い映画館の座席から156分間の体験を設計するとき、長々と科学の講座をするわけにはいかない。プロジェクト・ヘイル・メアリーを156分に収めるにはやることが多すぎます。未知の生物との交流、言語の構築、地球と相手の星の両方を救うミッション。科学的考証を十分に説明する間もなければ、それを土台として完全に消化された文学表現にまでたどり着けない。先程述べた「必然」に関する話も、それまで緻密な科学や理論を積み重ねてきたからこそ、最大限に発揮される頂点のヌケ感のような描写です。映像で表現するには、それに感動するための前処理が長すぎます。
これは映画の尺の問題であり、原作との宿命的なトレードオフです。
156分は長いのか短いのか
世の中の批評では「156分は長すぎる」「軽く30分は長い」という意見がありますが、正直なところ、何を根拠にしているのかわかりません。どのシーンをどう削ったら、面白さを担保しながらそれ以上短くできるのか。
実際に観ていて、中だるみは特に感じませんでした。強いて言えば、グレースとロッキーのコミュニケーションの発達段階に関するシーンは、映画全体の配分を考えるとやや長いかもしれません。けれどまったく許容範囲内ですし、むしろ必要なプロセスだったと思います。
「30分削る」となれば、結局ロッキーとグレースの掛け合いを削ることになるでしょう。しかしそれを削ったら、この映画の醍醐味がすべて失われます。むしろ180分でもよかった。科学的考証にもっと尺を使えたなら、原作のセンス・オブ・ワンダーを映像で再現できた可能性すらあります。
ただ、それをやるならNetflixやAmazonプライムのオリジナル作品として、しっかり時間をかけて作る方が適しているかもしれません。しかしそうなると、IMAXの映像体験が失われる。この映画が「劇場映画」という形式を選んだ時点で引き受けなければならないトレードオフの中で、最善の判断をしていたと思います。
IMAXで観るべき理由:回転カットとアスペクト比
SFはIMAXで観ないといけない。今回その確信が強まりました。
特に印象的だったのは、スクリーンの中で映像全体が回転するカットです。宇宙船の中での回転や、画面全体がぐるりと回るシーンが要所要所で使われていました。これがIMAXの特性と見事に合っています。
IMAXのアスペクト比(1.43:1)は通常のシネスコープ(2.39:1)よりも縦方向に大きく広がっている。画面に中心軸を置いて映像を回転させた場合、面積が広い分だけ回転の体験が豊かになります。通常の横長のスクリーンでは、回転しているという体験そのものが縮退してしまう。宇宙船内という空間では、そもそも「上下」が恣意的なものですから、回転演出との相性は非常に良いです。
音の設計:翻訳装置・クジラの鳴き声・ビートルズ
この映画における音の使い方には、いくつかの層があります。
まず、ロッキーの「声」について。原作ではロッキーの音楽的な言語がグレースの一人称で描写され、ロッキーのキャラクターが文体の中にしっかりと現れていました。映画では翻訳装置を通してやり取りが行われるため、「質問」「了解」といったやり取りの部分で、ロッキーの個性がやや薄まっていた印象はあります。
一方で、映画ならではの秀逸な表現もありました。翻訳音声をどの声質にするかを二人で相談して選ぶプロセスです。若い男性の声か女性の声か、試行錯誤しながらお互いにしっくりくる声を選んでいく。原作でのコミュニケーション構築の過程を、音と映像で見事に再解釈していました。
そして印象的だったのは、ロッキーが翻訳装置を通さずに出す「生の声」です。
グレースとの別れのシーン等、ロッキーはクジラのような高い声で鳴きます。これは人間が認識できる哺乳類の鳴き声をある程度トレースしているのではないかと感じました。
つまり、翻訳装置を通した音声は「意味」を伝える音であり、クジラのような鳴き声は「感情」を伝える音です。言語としての音と、感情表現としての音が分離している— 翻訳装置を通せない「生の声」が、最も感情的な場面で現れる。この設計には唸りました。
劇中歌の選曲も印象的でした。本作では14曲の既存楽曲が使用されており、南アフリカのミリアム・マケバ、チリのビオレータ・パラ、イギリスのビートルズ、アメリカのクリス・クリストファーソン— 宇宙に行く前の地球パートで、すでに音楽が多国籍なのです。「地球全体の危機」という物語の前提を、台詞ではなく音楽で表現していると感じました。
宇宙パートでは、ロッキーとの別れのシーンでニュージーランドの別れの歌「Po Atarau」、そしてビートルズの「Two of Us」が流れます。原作でもタウメーバを地球に送り返す探査機に「ジョン」「ポール」「ジョージ」「リンゴ」と名付けられており、ビートルズとの縁は原作から受け継がれたものです。
ストラットがカラオケでハリー・スタイルズの「Sign of the Times」を歌うシーンも、緊迫した状況に日常を挟む和やかな様子が出ていました。
ロッキーという存在:パペットのリアリティ
この映画でロッキーはCGではなく、アニマトロニクス(パペット)を主体に作られています。リードパペティアのジェームス・オルティスを中心に、複数のパペティアがチームで操演し、複雑なショットではCGを併用するハイブリッド方式です。
映画で初めてロッキーの全体像を見たとき、そのイメージは、自分が原作を読んで想像していた範囲のロッキーでした。ただ、ちょっと「ロック(岩)」に寄せすぎているかなとは思いましたが、違和感はありません。パペットだからこそ、光の当たり方や影の落ち方がグレースと同じ空間にあるリアリティがあり、それがロッキーの実在感を支えていたように思います。
そのリアリティが最も強烈に発揮されたのが、ロッキーがグレースを救出するシーンです。グレースが操作盤に頭を打ちつけて気絶し、遠心力の装置が起動しない。それを見たロッキーは、自分の殻を全てぶち壊して、空気環境が致命的に異なる場所へ飛び込んでいきます。ロッキーにとっては、人間の空気に触れること自体が命に関わる行為です。
それでもなお、体中から黒い粉— 霧のようなものを吹き出しながら、グレースを安全な場所まで引っ張っていく。赤と黒で暗転した映像の中で、自らの命と引き換えにしてでも友を救おうとする姿には、言葉を超えた迫力がありました。あのシーンの切迫感は、ロッキーが物理的に「そこにいた」からこそ成立していたのだと思います。CGで描かれたロッキーが同じ動きをしても、あの密着した緊迫感は出なかったのではないでしょうか。
あえて赤と黒で暗転することが、ある程度パペットさを消すことにも成功していたのだとしたら、まさに狙い通りのリアリティが出ていたと思います。
表情を持たない生物であるロッキーに感情を感じた瞬間は、動きの中にもありました。先述した遭遇シーンでのジェット噴射のやり取り— あの場面を心理学の視点で見ると、互いの動作を模倣する「ミラーリング」が起きています。敵意のなさと友好を身体の同調で示す行為です。言語がない段階で、表情もない生物が、身体の同調だけで「敵ではない」ことを伝える。このようなミラーリングは原作ではなかったか限定的だったと思います。他方映画においては感情表現として非常に効果的に機能していました。
別の論点で興味深かったのは、最初の遭遇シーンに対する劇場内の反応です。自分はかなり感動しながら観ていたのですが、周囲の観客の中にはくすくすと笑っている人もいました。ミラーリングが生み出すものを「可愛さ」として受け取り、それが面白さにつながる人もいれば、未知の生命体との邂逅そのものに感情が揺さぶられる人もいる。
同じシーンが「笑い」と「感動」の両方を引き出していたのは、このシーンの演出が持つ幅の広さを示していると思います。
ちなみに私はここで(というかこれ以降定期的に)泣いたし、隣の男性もボロ泣きしていました。
ストラットの人格造形:原作との印象の差異
映画版のストラットは、原作のイメージとはかなり印象が違いました。原作では優秀冷徹で合理的な印象が強かったのですが、映画では最初こそ厳しそうに見えるものの、割と温厚で話を聞いてくれそうな上司感がありました。
なぜ柔らかくしたのか。
考えてみると、映画では周囲の状況— プロジェクトのプレッシャー、他のスタッフの厳しさ— が十分に描かれているため、ストラットまで厳しくしてしまうと、やはりシリアスな要素が多くなってしまい、観客にとって画面上に「息をつける場所」がなくなるのかもしれません。原作では、頻繁に挿入されるグレースの内面描写が読者にとってのある種緩衝材になりますが、映画では登場人物の関係性そのものでトーンを調整する必要があると思いました。
先述したカラオケでハリー・スタイルズを歌うシーンも、この文脈で理解できます。ストラットに人間味を見せることで、観客がグレースと一緒に「この人は味方なのかもしれない」と感じられる設計です。
ちなみにストラットは、映画では結末で再び登場します。
原作では、グレースがタウメーバを送った後、地球がどうなったかが明確に描かれないまま、ロッキーの星での暮らしに移ります。私は読後に「地球はどうなったのかな」というモヤモヤが残りました。映画ではこれが少し解消されています。年老いたストラットがグレースの探査機「ビートルズ」を受け取り、地球側にもちゃんと決着がつく。
宇宙の銀河だけが流れるエンドロール
最後に、エンドロールの話をさせてください。
この映画は、エンドロールにオリジナルの主題歌を用意していません。劇中ではビートルズやハリー・スタイルズといった既存の楽曲が効果的に使われていましたが、エンドロールではそれらも鳴りを潜めます。流れるのは、ただひたすら宇宙の銀河の映像と、それに寄り添う音楽だけです。
この演出はとても印象に残りました。変に誰か有名なアーティストの歌を流してある意味「感動や余韻を追い足す」のではなく、物語が終わった後もずっと観客を宇宙に留めておく。156分の映画体験の余韻を、言葉ではなく映像と音だけで包み込む。劇中歌の使い方に工夫を凝らした分、エンドロールは引き算に徹する。この潔さに、最後まで感動しました。
IMAXの巨大なスクリーンに広がる銀河をただ見つめながら、グレースとロッキーの物語を反芻する時間。それは映画館でしか味わえない体験でした。
さいごに:原作と映画で完成する作品
グレースは分子生物学の博士号を持つ科学者、ロッキーは自分の星の腕利きのエンジニア。
二人とも、それぞれの分野の知識と技術で問題を解決していく「オタク」気質の持ち主です。しかし同時に、誰も命がけで…特にグレースは宇宙に行きたくないという、ごく当たり前の感情も持っている。変に勇敢なヒーロー像を描くのではなく、「怖い、行きたくない」と最後まで抵抗した主人公が、それでも結果的かつ半ば強引に勇敢な行動を取る。そこに、この作品の魅力があります。
正直に言えば、これは「原作を読むべき」作品です。上下巻あります。長いです。
ただ、原作を読んだ上で、IMAXで観てこそ最大化される体験だと思います。映画は原作を改悪していないし、真摯に作られている。
それでも映画の尺には収まりきらない情報がある。その溢れる情報は、原作で拾ってもらうしかありません。
逆に言えば、原作だけでは味わえないものが映画にはあります。IMAXの没入感、回転カットの身体的な体験、パペットのロッキーが「そこにいる」のリアリティ、明るい音楽と絶望の中の勇気づけ、そして銀河だけが流れるエンドロールの静謐な余韻。
『プロジェクト・ヘイル・メアリー』という作品は、原作と映画— 文字と映像が相互補完し合う、珍しい作品体験だと思います。どちらか一方では完成しない。
映画から先に鑑賞された方は、ぜひ原作も読んでみていただきたい作品でした。