君たちはどう生きるか

はじめに

「君たちはどう生きるか」を見ました。面白かったです。ただ、ストーリーはやはり難しくもあったと思います。

その難しさが何であったかを、もう少しまともに理解したくて、鑑賞後はいろいろなブログやレビューをみました。

そこで取り上げられている内容は、主には「登場人物の◯◯は△△のメタファーだ」「あの道具は□□を暗示している」という内容が多く、なるほどなと思い、それはそれで理解しました。

ただ、それで理解できたことは、新しい知識の肉付けという意味合いが強く、映画館でモヤった分からなさの根本は、依然分からないままでした。

映画をみてから1週間くらい経ちますが、自分なりに考えて理解できた「分かりにくさ」「難解さ」を整理したいと思いました。

極力、「◯◯は△△のメタファーだ」というロジックを使っていませんし、そこまでのジブリ知識が私にはないです。

ここでは、別の観点として「鑑賞体験」「キャラクターの役割」「物語の構成」を主軸に、本作の難解さを言語化してみたいと思います。

この「はじめに」のパート以降、ネタバレを含みますのでご了承ください。

あらすじ

太平洋戦争の末期、主人公眞人の母が空襲の火事で亡くなった。

その後疎開し、お父さんは母の妹のナツコと再婚し妊娠した。眞人はこの再婚に気持ちの整理がついていない。

ある日、ナツコが行方不明にになり、眞人は探しに非現実世界に飛び込む。

そのなかでいろろなことを経験する。結果的に継母への気持ちの整理をつけてくるし、自分の弱さも克服して現実に戻ってくる。

ほか前提知識

・宮崎駿監督の10年ぶりの新作映画
・広告宣伝は一切なし

以下、時系列で私の考察が続きます。

広告は「うてなかった」とも言える

本作の導入部分で明かされる設定は、初手から情報量が多い。自分の父親が、元母の妹と再婚し、しかも妊娠している設定。

調べてみると、これはソロレート婚という結婚の慣習らしい。昔あったことを理解したが、とは言え今を生きる我々に、その価値観は受け入れがたい。

本作はそこに対してあまり説明的ではないし、説明があっても間接的。例えば、ナツコに会ったときの眞人の心の声で、「母さんに似ている」という発信はあったが、それも間接的で説明が遠い。

このような設定を、鑑賞前に「簡潔に説明してしまう」のが広告である。

本作はあえて広告をうっていないという前文句だが、前述の通りソロレート婚の設定は理解し難い。そのため、広告を「うたなかった」のではなく「うてなかった」とも言える。

広告のマス性がなくても、公式から前情報がでれば、一気にSNSに流れてブログに書かれる。一度情報が漏れればどんどん拡散する。父親とナツコの設定は、それのみを知っていると、ストーリーの味わい方に影響が出る。言い換えると、本作が宮崎駿のフルコースであるなら、前菜だけ食べておなかっぱいになる可能性がある。

映画館に来てさえくれれば、そして映画の鑑賞がスタートすれば、終わるまで観客はそこを批評しないし、黙って観ている。

黙って観てたら、案外いろいろなことが起こるので、ソロレート婚の設定は、映画が進むにつれて薄まる。最終的にハッピーエンドでは終わる。

そういう意味で(=宮崎駿のフルコースをちゃんと食べきってもらう意味で)、前情報なしは明らかに有効だし、本作は「映画で物語を鑑賞すること」を大事に尊重しているとも言える。

主人公の役割を担わない主人公

救うべきヒロインは、空から降ってきた不思議な少女ではないし、同じクラスの好きな女の子でもない。または、豚になった両親でもない。

自分のことを好きかどうかも分からない継母だし、自分も継母を好きかどうかわからない。

この継母を、ストーリーは主人公に助けに行かせる。主人公にとってはだいぶ酷な作業。本当に助けに行きたいって思ってるかも不安。

序盤では、「継母を助けにいきたいんです」「マジです」と、主人公は思っていない。少なくとも他のアニメ映画の主人公にあるべき、「純粋で能動的な自分の意思」はない。

この感情がない方がいい。たぎる責任感で、継母を全力で助けに行かれても、私達はよく分からなくなる。感情はないが、主人公の温度感は適切。

多くの人にとっても象徴的だったであろう以下のセリフにも触れたい。

「”父の”好きな人です」

これは明らかに自分ごととしていないセリフである。

動きの激しいシーンでも「”父の”好きな人です!」と叫んでこたえる。やはり感情がないし、自分ごとになっていないのが際立つ。(確かキリコと船に乗り、荒波に揉まれながらのシーンだったでしょうか?)

いびつに構成された非現実世界の入口

主人公を前に進めるために、非現実世界の入口の構成は決定的に大事だった。

基本、物語が大きく展開する非現実世界の入口では、主人公は自分で勇気を出して飛びこんで、何かを救ったり敵を倒しに行く。一人で踏み出すパターンもあるし、仲間がサポートしてくれることもある。

振り返って本作はどうだったであろうか。

前述のとおり、本作の主人公は他アニメのそれと比べても、気乗りしていない。

登場するアオサギ、主人公をファンタジーに誘い前に進めようとするが、なかなかに嘘つき。信用できない。っていうか中身がおっさん。かたや、前に進むことを引き止める人物は女中。こっちはおばさん。

非現実世界の入口では「仲間がサポートしてくれることもある」と書いた。実際、ほかの作品では、例えば小さな妖精が「行こうよ」「助けようよ」と少しは励ましてくれたりする。友人と進む場合もある。

しかし本作において、前にすすめと言ってるのは信用ならないおっさん。戻ればおばさんという、救いようのない入口設定。おっさんとおばさんに挟まれたら、普通ちょっとは悩む。私が同じ状況を体験したら、「なんやねんこの状況」と内心思う。

これはファンタジーでありフィクションだろうか。

私は現実の膨張と理解した。私たちが何かを踏み出すときの現実もだいたいこの程度のものだ。前にも後ろにも救いはない。けど、進まなければならない。

「ナツコさんを探さなきゃ」というセリフはあるが、過程で迷うセリフがないのはやはり違和感だ。進むと戻るの狭間での葛藤もない。「逃げちゃだめだ」とも言わない。

これは考えすぎかもしれないが、主人公のアニメーションには感情がないように見受けられる。アニマがない、とも私は思えた。コマからコマへの動きの中で、主人公の意思が感じられない。

そのため「ナツコさんを探さなきゃ」というセリフは、アニマを感じられない以上「主人公をやるうえで最低限必要な、決まったセリフ」を吐き続けているにすぎないと感じた。

有無を言わさず進む鑑賞体験

ファンタジーアニメにあるべき、現実から非現実の入口が、前述の通り退廃的。

しかしこれは映画だ。時間軸がある。迷っている暇はない。というか、眞人が迷っていない以上、ここで観客まで迷い続けることを、本作は観客に許可していない。

観客を置き去りにしながらも、物語は進行する。細かいことは抜きにして、眞人の本音も分からないし出さないまま、おっさんとおばさんに挟まれて主人公は非現実世界へ足を踏み入れる。

この点が、本作を難解にさせている大きな要因であり、一方で物語構成としては決定的に新しい部分とも言える。

この入口設定を待ったなしで観客に吸収させることは、前情報なしかつ映画館で本作を鑑賞することの利点と言える。

(役割としての)父親が不在

車を乗り回して学校にいくわ、子供の喧嘩に過剰に介入してくるわで、めんどくささの多い父親。

かと思えば、眞人やナツコがいなくなったらマジで真剣に探す。真剣さの熱量だけでいったら、眞人より主人公らしい。

この親父は終始自由。どんな自由か?自分の良心に素直。自分の良心に従って行動しているだけ、ある意味まっすぐ。眞人とは対照的だ。

一方で、眞人への父親的な命令や、過度な干渉もない。他のアニメの父親のようにエヴァに乗れとも言わない。そういう意味で「厳然たる父親」の役割も果たしていない。

この父親の役割はなんなのか?

なんの役割もないだろう。良いとも悪いとも、どちらにも転べる。曖昧であり自由。強いて言うなら、現実を複雑なものにしている。

(役割としての)敵も不在

本作には敵がいない。

敵かもしれない存在はいた。インコである。インコは敵だったであろうか。

大量の鳥が出てくると、どうしてもヒッチコックの鳥を想起せずにはいられない。こればかりは引用せざるを得ない。ヒッチコックの鳥の役割と同じく、本作の鳥は敵なのか。

私の考えでは、違う。敵ではない。例えばインコの王様は全然攻撃してこないし、最後の方はこっそりついてくる。確かに階段は切り落としたが、あれは主人公たちへの直接的な攻撃とは言えない。あのシーンで、物語の進行が困難なほどの深手を負ったと捉えた観客も少ないだろう。

そもそも、よく考えてみると他の大群インコもふくめ終始攻撃的ではない。大群インコも、包丁は隠し持ってる、または研いでるだけ。眞人たちを直接的に攻撃したとは言えない。

ヒッチコックの鳥のような攻撃性がないなら、インコの役割は、「敵」を差し引き「不気味」の引き立て役と言える。大群の鳥はいつの時代も不気味。これは真理だろう。インコはこの真理を踏襲し、ジブリ風にアレンジした不気味を演出する役割。我々のファンタジーへの期待を削ぐような、そんな不気味さであった。

考察のまとめ

改めて、本作の「分かりにくさ」「難解さ」について整理してみたい。

非現実世界にいざない「進め」と言うおっさんもクソだし、その入口まで来て「戻れ」と言うおばさんも面倒くさい。

加えて、眞人はナツコをガチで救いたい気持ちにもなっていない。とは言え、主人公なので進まなければならない。父親は自由だ、敵もいない。

普通の物語には存在し、役割を果たす存在がいない。存在していても役割を放棄している。逆に、役割のない存在が大事なシーンで役割を負う。ストーリーがそれらをつなぎとめている。

このような「与えられる役割と構成の曖昧さ」が、本作の「分かりにくさ」「難解さ」の正体だと私は考える。

さいごに

主人公が継母を助けに行った先の非現実世界でいろいろあった。
※「いろいろあった」の細かい意味解釈はもっと詳しい人に委ねます。ワタワタが可愛かったしか私は感想がないです。

最終的に、眞人はナツコを母と認めたし、自分でつけた傷は自分でつけたと言えるようになった。情報量が多く不気味なアニメ表現で事の発端を見失うかもしれないが、これは世界を救うほどのたいそれたことではない。あくまで眞人の個人的な問題。

その程度の個人的な葛藤は現実でもおこるし、それくらいは、自分の気持ちの振り方次第でどうにでも解決できる。

現実はどうしようもないが、事実は小説よりも奇なり、である。ファンタジーは特別ではないし救いもない。

眞人は鳥糞でクソまみれになりながら現実にもどってくる。でも、自分の問題は自分で襟を正して帰ってきている。立派だと思う。

その程度の襟も正せない人は、世の中に意外に多い。自分のことは棚に上げて、ファンタジーに救いを求めるし、夢をみる。夢が枯れれば、またファンタジーで補充する。その繰り返し。棚にはもう手を触れない。

些細でも自分なりに成長した眞人をみると、やはり問いかけられているように感じる。

こんなどうしようもない現実で「君たちはどう生きるのか」と。

カテゴリ: 映画の感想

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