平和と愚かさ

はじめに

東浩紀さんの「平和と愚かさ」を読みました。2025年12月にゲンロンから出版された本書は、ウクライナ、ベトナム、中国、ユーゴスラヴィア、アメリカなど、戦争の記憶が残る土地を訪ねた哲学紀行文集です。

読み始めてすぐ、序章の一文に引き込まれました。「平和と愚かさはともに『考えないこと』の表現である」。平和であるためには平和であることを忘れなければならない。しかし忘れすぎると愚かさになる。この両義性には、自分自身も平和に対してぼんやり感じていたものがあり、期待感を持って読み進めました。

読み終えたとき最初に浮かんだのは、「自体験に即して文章を書かなければ意味をなさない」ということでした。本書は紀行文という形式をとり、東さん自身が実際に各地を訪ねた経験から思考を組み立てています。その主体的な行動力と、そこから生まれる議論の手触りに、強い印象を受けました。

「考えないこと」が平和であるという逆説

「考えないこと」の両義性を示す対比図。左に平和(考えなくていい状態)、右に愚かさ(考えないがゆえの過ち)を配置

本書の出発点は、平和を「戦争がない状態」ではなく「戦争について考えなくていい状態」として定義し直すところにあります。少なくとも「考えないことが許されている」状態こそが平和である、と。

ありきたりなようでいて、よく考えると挑発的な定義です。というのも、平和について考えている時点で、それは今が平和ではないことの裏返しだからです。何も問題がないとき、問題を考えなくていいときに平和を感じる。この感覚は、多くの人が共有できるものではないでしょうか。

一方で、「考えないこと」は愚かさでもあります。東さんはその両面を引き受けた上で、「平和ボケ」を肯定的に捉え直そうとしています。政治的無関心を助長するという批判はあり得ますが、東さんの議論が興味深いのは、その批判を織り込んだ上で「考えないことが許される状態を守ることが大事だ」と言い切っている点です。

「賢さへの強迫」と、グレーゾーンに留まる力

本書の中で特に共感したのが、「賢さへの強迫が過剰だと、不安を感じ逃走し、より深い愚かさに突入する」という指摘です。

SNSを眺めていると、あらゆるニュースに対して「正しい意見」を持つことが求められているように感じます。ウクライナ問題でもパレスチナ問題でも、「結局どっちの味方なのか」と迫られるような空気がある。かつては「戦争はよくない」と言えば済んだものが、今は「ではおまえはどちらの側で戦うのか」と問われてしまいます。東さんはこの状況を、「平和への語りが、戦いへの語りに引き寄せられている」と表現しています。

この「賢さへの強迫」は、言い換えれば「正しさへの強迫」です。何事も白黒はっきり線引きしなければならないという空気が、強迫観念のようになっている。

この指摘に強く共感する理由には、自分が美大に6年間いた経験があると思います。美大というのは、良い意味で「わけのわからないこと」のパレードのような場所です。作品の講評でも、面白い・面白くないという評価はありますが、基本的にはグレーゾーンの中で過ごします。友人の習作を見て「今後伸びそうだな」と話したりする。すぐには判断できないもの、答えが出ないものに囲まれた時間は、「賢くあるべき」「正しくあるべき」という二分法のために知性を使わずに済んだ、ありがたい環境でした。

美術教育が「考えないことが許される場」を直接提供できるかどうか、まだ明確な答えはありません。ただ、「答えを出せないことが許される場」は作れるのではないかと思います。お互いの思考のプロセスを尊重した上で、どちらの方向に舵を切っていくかを対話しながら決めていく。そうしたスタンスが、今の時代にはもっと必要ではないでしょうか。

正しさが狂気になるとき—カント定言命法の両義性

正しさが狂気に変わるフロー図。理論構築→100%確信→主体性喪失→加害の中動態への4段階

本書のもう一つの重要な論点は、「悪の愚かさとは、加害の中動態的な性格のことである」という指摘です。中動態とは、能動でも受動でもない態のこと。加害に加担しつつも、その加担を自発的に選んだという自覚がない。この「中動態的なかまえ」が、大量虐殺の残酷さの本質だと東さんは分析しています。

ここで引き合いに出されるのが、カントの定言命法です。東さんはアーレントの分析を踏まえ、アイヒマンがカントの定言命法を愚直に実践した結果、自分が何をしたいかを考えなくなってしまったと述べています。

カントの定言命法は、個人的に大事にしている概念でした。「自分がしたことだけしか教えられない」というスタンスや、自分の行動の価値を普遍的に問い直す姿勢は、美術教育においても通じるものがあると思っていたからです。

しかし本書を読んで気づかされたのは、正しさは狂気にもなりうるということです。人が悪に染まる瞬間は、自分が100%正しいと思い込んでしまったときではないでしょうか。自分で考えて構築したはずの理論に引きずられるあまり、今度は逆に主体性がなくなっていく。定言命法を大事にしている自分も、それを100%正しいと確信してしまったら、アイヒマン的な行動を取りかねない側面がある。その可能性に気づいたことは、正直なところ怖くもありました。

だからこそ、理論を構築した上で、他者の矛盾や自分自身の愚かさを許す「余白」を残しておくことが大事です。理論に胡坐をかいて正義の暴力を振りかざすのではなく、周りの人の矛盾を許容し、分からないことは分からないまま抱えておく。その余白を持てるかどうかが、正しさと狂気の分岐点なのかもしれません。

「ストーリーテリングの暴力」—数値化の暴力を日常に接続する

ストーリーテリングの暴力を示す構造図。表のストーリー(成功の数字)と裏の現実(排除された存在)の対比

本書では「抽象化と数値化の暴力」という概念が語られています。人間を抽象化し、記号として扱う暴力のことで、731部隊やアウシュヴィッツの事例を通じてその構造が分析されています。

この概念を読みながら思ったのは、数値化の暴力は「ストーリーテリングの暴力」とも言い換えられるのではないか、ということです。

例えばデザインプロジェクトにおいて、自分たちの成果を語る手法としてストーリーテリングはよく使われます。「これだけのプロジェクトを行い、何人の生活が改善された」と、耳ざわりの良い数字で語る。しかしその裏には、狙った効果を得られなかった人たちが必ず存在します。数値化やストーリー化の過程で、そうした存在は排除されていく。

これはいわば、成功者だけが語られる「生存者バイアス」の構造と同根のものです。しかも、語られる成功事例の多くはまだあまりにも短命です。わずか半年や1年のプロジェクトが成功しただけで、さも価値の再現性が高いかのように抽象化して語り始める。10年、20年というスパンで検証されていないものを、あたかも普遍的な成果であるかのように見せてしまう。結局のところ、数値化とは抽象化であり、個人の希釈化です。戦争という極端な例に限らず、何か「良いこと」を語ろうとするときにも、まとめることの暴力性は潜んでいます。ポジティブな文脈でもネガティブな文脈でも、この両義性から逃れることはできません。

犠牲者意識はなぜ心地よいのか

本書で見逃せないもう一つの論点が、「犠牲者意識ナショナリズム」です。被害の自覚をアイデンティティの核に据え、他者を糾弾することで政治的な支持を集める。東さんは、「わたしたちは暴力を受けた」「経済的に搾取された」といった負の感情が、人々をまとめ運動に駆り立てる手段として「あまりに便利に使われすぎている」と指摘しています。

この構図は、国際政治のスケールだけの話ではありません。日常の人間関係でも、「自分は傷つけられた被害者だ」という前提で話が始まることがあります。事実を確認してみると相手の勘違いだったとしても、不当な非難を向けたという「加害者」の立場には目を向けてもらえないことが多い。思考のパターンが「被害者」か「中立」の二つしかなく、自分が加害者であった可能性には踏み込めない。加害者であるよりも犠牲者である方が立場として楽であり、支持も得やすいからです。

東さんは「個人は賢くなるかもしれないが、群れは賢くならない」と書いています。新しい個体が補充され続けるからだ、と。この冷めた人間観に共感しつつも、この知性を克服・獲得できる人が一定量を超えられるかどうかについては、個人的には超えられると信じたいと思っています。

紀行文が取り戻す「読書体験」

本書の特徴は、純粋な哲学書ではなく紀行文という形式をとっている点です。東さん自身が各地を「観光客」として訪ね、自分の目で見たものから考察を展開しています。

ウクライナで見かけたハイマース(米軍の高機動ロケット砲システム)をモチーフにしたTシャツは印象的な事例です。ロックバンドの全国ツアーに見立てて、激戦地の名前がツアー日程のように印刷されている。戦争が消費文化に取り込まれている現象は、現地に足を運ばなければ目にすることがありません。

ベトナムのクチでは、見学コースに射撃場が組み込まれていて、ベトナム戦争で実際に使われた銃を撃つことができるそうです。東さん自身もAK47を5発撃っています。見学中はずっと銃声が鳴り響いている中をトンネルを歩くことになる。こうした「体験型」の戦跡についての記述は、新鮮な驚きがありました。

今の世の中には、実体験を伴わない入門書や新書があふれています。体系的な知識を整理した本にもそれぞれの価値はありますが、本書はそれとは異なり、たとえ範囲は限られていても、自分の目で見たものから何かを導き出すという営みを愚直に実践しています。机上の空論のような話ばかりで物足りなさを感じている人にとって、本書は「読書体験」を取り戻してくれる一冊ではないでしょうか。

さいごに

本書の終盤で、東さんは哲学者の役割を「テーマパークの顧客担当」に喩えています。自然科学や社会科学が明らかにする現実と大衆が抱く幻想を突き合わせ、なんとかテーマパークが破綻しないようにする。理想を語るのでも現実を嘆くのでもなく、その間でやりくりする。それが現代の哲学者に与えられた厄介な仕事だ、と。

この「なんとかごまかしながらやっていく」という表現には、共感しつつも少し違和感を覚えました。ごまかさないと精神が持たないという意味では、広く通用する言い方だと思います。ただ、自分の感覚としては「ごまかす」のではなく、「分かるところと分からないところをはっきり分けておく」方が近い。そして分からない部分については、そのまま取っておく。すぐに答えを出さず、グレーのまま保持する。詩人キーツが「事実や理由をせっかちに求めず、不確実さの中に留まれる能力」と呼んだ、ネガティブ・ケイパビリティという姿勢です。

テクノロジーがどれだけ進んでも、人の自信のなさやSNS上の言葉の殴り合いといった問題は残り続けるでしょう。むしろ人間が持つ本質的な課題は露呈してきています。東さんの「人類はどうせ賢くならない」という冷めた言葉には、そうした現実への誠実さがあります。

理想主義的な平和論とも、冷笑的なニヒリズムとも異なる、独特な手触りのある一冊でした。自分の体験に即して物を考え、分からないことは分からないまま持ち続ける。その姿勢こそが、「考えないことが許される状態」を守るための第一歩なのかもしれません。