ゲーデル、エッシャー、バッハ — あるいは不思議の環

20歳の頃、大学のゼミの先生に「読んでおいた方がいい」と勧められた一冊がありました。2段組み765ページ、厚さ4cm超。10年目に一度挫折し、電子化してようやく読了できたのが40歳手前の今です。20年越しの読書体験になりました。

「ものすごく賢いエッセイ」としてのGEB

「ゲーデル、エッシャー、バッハ」(以下GEB)は、数学者クルト・ゲーデル、画家M.C.エッシャー、作曲家J.S.バッハの三者に共通する「自己言及」と「不思議の環(strange loop)」を軸に、論理学、AI、分子遺伝学、禅、音楽、美術といった領域を横断する本です。1979年にアメリカで出版され、ピュリツァー賞と全米図書賞を受賞しています。

一般的にこの本は「自己言及」や「意識の創発」がテーマだと語られます。ゲーデルの不完全性定理 — 十分に強い形式体系には、その体系内では証明も反証もできない命題が存在するという定理 — を起点に、エッシャーの絵画やバッハのフーガにも共通する自己参照の構造を読み解き、最終的には「意味を持たないニューロンの発火から、なぜ意味を持つ心が生まれるのか」という問いに向かいます。

ただ、この本は何なのかと聞かれると、正直なところ一言では言いにくいです。哲学書でもなければ科学書でもない。ピュリツァー賞では「一般ノンフィクション部門」で受賞していますが、それもしっくりこない。個人的には「ものすごく賢いエッセイ」という表現が一番近いと感じました。著者のホフスタッター自身も20周年記念版の序文で、この本は一つの中心テーマについて書いたものであり雑多な寄せ集めではないという趣旨のことを述べています。エッセイの語源は「試み(essai)」ですが、まさにその言葉通り、自己言及という一つのテーマを巡って延々と思考実験を繰り広げる、壮大な試みの記録です。

ルールの奥を潜っていく

この本の読書体験を一言で表すなら、「ルールの奥を潜っていく」という感覚がしっくりきます。

序盤に登場するMIUシステムやpqシステムといった形式体系の話が印象的でした。

MIUシステム — 4つのシンプルなルールからMIを出発点に文字列を変換していくと、予想外の複雑さが生まれる

最初は「M」「I」「U」というシンプルな文字の並べ替えルールから始まります。それがルールを一つ足すことで体系が膨らみ、また一つ足すことで予想もしなかった文字列が生まれる。シンプルだったものが、いつの間にか手に負えなくなっていく。面白くもあり、分からなくもあり、いい意味で瞑想するような時間でした。

定型的な定義を示した上で、その説明が長く続く箇所もあります。でも、そこにルールを足すことによって突然変異的な成長が起きる。最初のルールからは想像もつかなかった文字列が、いくつかの操作を経て突然現れる。地味な過程の中にも、たまに予想外のことが起きるという性質が、この本の読書体験の核にあると思います。プログラミングで一度ルールを組んでしまえばその通りに動くのは当たり前ですが、その先でシステム自体が変化していくような感覚 — それがこの本の形式体系にはあります。

自己言及の先に見えた「無限」

三者の自己言及 — ゲーデル(数学)・エッシャー(視覚)・バッハ(音楽)それぞれの自己言及構造を示す比較図

この本のテーマは自己言及だと言われますが、自分はむしろ「無限」の話を読み取っていました。

ゲーデルの不完全性定理を支える仕組みは、ある体系が自分自身について語る文を構成できるというものです。エッシャーの絵画は、絵の中の世界が自分自身に折り返してくる。バッハのフーガは、テーマが変形されながら自分自身に戻ってくる。確かにこれらは自己言及的です。

ただ、自分が惹かれたのは、そのループに終わりがないという点でした。自己言及のループは定義上、終点がない。その「終わりがない」ところに、無限の話を読み取っていたのだと思います。

可能無限と実無限 — 二つの無限から読むGEB

GEBの章の間には、アキレスと亀のユーモラスな対話が挿入されます。これはゼノンのパラドクスを下敷きにしたもので、亀は先を行っていて、アキレスが亀のいた地点に到達するたびに、亀はさらに少し先に進んでいる。論理的にはこの追いかけっこが永遠に終わらない — というのがパラドクスの構造です。

アキレスと亀のパラドクス — 亀が先にいる→A地点に着くと亀はもう先へ→B地点に着いても亀はまた先へ… 追いつく「その瞬間」は永遠に来ない

この「永遠に追いつけない」という感覚は、無限の一つの捉え方と結びついています。「可能無限」です。可能無限は、無限をプロセスとして捉える考え方で、「どこまでも続けられるが、完結することはない」。アリストテレスがこの立場をとりました。アキレスは走り続けることはできる。でも、亀に追いつく「完結した瞬間」は、このプロセスの中では訪れない。

一方で、無限にはもう一つの捉え方があります。「実無限」です。実無限は、無限を一つの完結した対象として扱う考え方です。1, 2, 3…と永遠に続く自然数を、「自然数の集合」として丸ごと一つのものとして手に取れる対象として捉える。カントールの集合論がこの立場です。この立場に立てば、アキレスが亀に追いつくまでの無限の区間を「一つの完結した対象」として扱えるので、パラドクスは解消されます。

二つの無限 — 実無限と可能無限の比較図。実無限は無限を完結した対象として扱い、可能無限はプロセスとして捉える

自分がこの本を読んで感じた「無限」は、可能無限の方でした。自己言及のループはどこまでも続くけれど、「ここで完結した」とは言えない。自己言及という行為は、本質的に終わらないプロセスであるはずだと感じたからです。自分自身を参照して、その参照した自分をまた参照して…と続いていく。定義上、どこかで完結しない。

ホフスタッターの立場はどちらかというと実無限寄りです。彼は「自己言及のループが十分に複雑になれば、そこに意識が創発する」と主張している。つまり、プロセスがどこかで質的に転換して「完結した何か(意識)」になると考えている。でも、自己言及にゴールがあるというのは、自己言及の性質と矛盾するのではないかと感じました。

ただ興味深いことに、ホフスタッター自身が2007年の著作「I Am a Strange Loop(私は不思議の環)」では、意識を自己参照的なフィードバックループとしてより精緻に描いています。GEBでは実無限寄りに見えた「意識の創発」という主張が、28年後にはプロセスとしての自己言及をより重視する方向に深化しているように読めます。

「小さなハーモニックラビリンス」の仕掛け

この本の面白さは、内容だけでなく本というメディアの物理的な形式自体を使って自己言及を実演しているところにもあります。

中でも印象的だったのが「小さなハーモニックラビリンス(Little Harmonic Labyrinth)」という対話篇です。アキレスと亀がエッシャーの版画の世界に入り込み、pushing-potion(押し込み薬)とpopping-tonic(飛び出し薬)を使って物語の中の物語にどんどん潜っていく。魔神がメタ魔神を呼び、メタ魔神がメタメタ魔神を呼び…と階層が深くなっていきます。

そして、入れ子が深くなるにつれて、ページ上のフォントサイズが段階的に小さくなり、テキストブロックの幅も狭くなっていく。テキストの配置自体が「潜っていく」構造を視覚的に表現しているのです。戻ってくるときには文字が再び大きくなる。GEBの中でホフスタッターは、この対話篇をバッハ作とされる同名曲(BWV 591)の転調構造 — 主調から別の調へ次々と押し込まれ、元の調に飛び出す — と対応させています。

内容と形式が一体になったこの仕掛けは、自己言及的な「論理遊び」の好例だと思います。こうした論理思考実験のようなものが本のあちこちに散りばめられていて、それを見つけるたびに、分からないなりに面白いと感じられる本でした。

「作る前の自分から、作った後の自分になる」

作る前の自分から、作った後の自分になる — 作る→気づく→自分が変わる→また作る の循環フロー図

この本の可能無限的な自己言及は、「自己実現」という言葉の捉え方にも関わってきます。

「なりたい自分になる」— 自己実現は多くの場合、こうした到達点として語られます。目標を設定し、努力し、そこに辿り着けば完了する。これは実無限的な自己実現です。「完成された自分」という一つの対象が先にあって、それを手に入れることがゴールになっている。

ただ、実際に何かを作り続けていると、この捉え方には違和感が残ります。目指す過程の中で自分自身が変わっていくからです。作品を一つ仕上げるたびに見える景色が変わり、昨日の目標が今日にはもう違うものになっている。参照先である「なりたい自分」が常に更新される以上、そこにたどり着くことはない。自己実現とは本来、可能無限的なプロセスなのだと思います。

「なりたい自分」は追いかけるほど動く — 目標を定める→近づくと変わる→それでも歩く の3ステップ図。自己実現は到達点ではなく、可能無限的なプロセス

自分は学部から大学院まで6年間、ピンポン玉を扱った作品を作り続けていました。情報デザインを学ぶゼミでプログラミングも扱っていて、GEBを勧められたのもその先生からでした。作品を作って人に触ってもらい、その反応を観察する。人によって触り方も考え方も注意の向け方も違う。作品という固定されたシステムを通過する人間の反応が多様であること — プログラミングやメディアアートに限らず、そこに面白さがあると感じていました。

6年間、作れば作るほど違うことを試したくなる。試行錯誤を繰り返す日々で、完成に近づいているのかどうかも分からない時期が長く続きました。最終的にはパラダイムシフトのような考え方の転換が起きて、大学院を修了することができました。6年かけてようやく「ここまで突き詰めた」と思える地点に立てた。でも、それは「完成された自分」に到達したということではなく、十分に長く続けたからこそ見えた景色があったということです。たどり着いたと思った場所から振り返れば、自分はもう出発したときの自分ではなかった。

私がいた美術やデザインの界隈で聞いた言葉として印象に残っているもので、「作る前の自分から、作った後の自分になる。それを繰り返すことしかない」というものがありました。実際にやってみて初めて気づくことがあり、それによって次のステップが決まる。作品を作ることで自分が変わり、変わった自分がまた作品を作る。その循環の中で「なりたい自分」も一緒に動いていくから、プロセスは完結しない。

MIUシステムで「ルールを足すことで突然変異的な成長が起きる」と感じた読書体験は、この制作プロセスと重なっています。地道にルールを適用し続ける中で、ある時点で質的な転換が起きる。ポール・ヴァレリーは「作品は完成しない、ただ放棄されるだけだ」と言いましたが、制作における「完成」は、プロセスのどこかで手を離す決断のことであって、到達点のことではないのだと思います。少なくとも自分にとっては、自己実現が可能無限的なものだと分かったことが、長く作り続けるための支えになっています。完成しないのが当たり前だと思えれば、途中経過の自分を「まだ足りない」と責めなくて済む。完璧主義からの解放と言ってもいいかもしれません。今いる場所が通過点であることを受け入れられれば、次の一歩を踏み出すハードルは下がります。

さいごに

GEBは、人に薦めるかと聞かれたら正直に言って人を選びます。分かりにくいところも多いし、長いし、根気がいる。
でも、自己言及というテーマだけでこれだけの本を書ける情熱は、試みとして素晴らしいと思っています。

「何かを理解したくて読む」という姿勢だと、あまり向いていないかもしれません。考える範囲を広げたい、頭の中のキャパを拡張したい、そういう気持ちで手に取れる人には、得がたい読書体験になるはずです。分からないことに耐えながら、ルールの奥を潜っていく。その過程自体が、可能無限的な自己言及 — 「作る前の自分から、作った後の自分になる」— を体験させてくれる本だと思います。

1979年に書かれたこの本には、当時のAI研究に触れた箇所もあります。ホフスタッターは自己言及的なシステムに意識が宿ると考えていました。今、AIが実際に自己言及的な振る舞いをし始めている時代にこの本を読了したわけですが、正直なところ、本書の議論と今のAIの状況がつながっている感覚はあまりありません。今の方が圧倒的にAIがリアルで、1979年の思考実験とは次元が違う。もう少し早く読んでいれば違った感想を持てたかもしれません。

それでも、20年かかってようやく読み終えたこの本を、棚にしまって終わりにする気にはなれません。折に触れてまた開きたくなるタイプの本です。次に開いたとき、また違うものが見えるだろうと思っています。